町指定の文化財: 町指定候補の文化財: 国指定の文化財:
町指定文化財

1.木造聖観音菩薩坐像(しょうかんのんぼさつざぞう
)
 普恩寺の本尊として伝わっています。南北朝時代の作品で、胎内の銘文から暦応5年(北朝年号・1342)に松浦党(まつうらとう)の人々を檀那(だんな)とし、九州に数例の作品を残す慶派(けいは)系統の仏師湛勝(たんしょう)によって製作されました。像高は57cm。ひのき材による寄木造りで、眼には水晶をはめて、身や着衣はうるしを塗って金箔をはっており、保存状態はすぐれています。宝冠(ほうかん)・持物(じもつ)・髻(もとどり)は後世に補修されています。
 この観音像の造像には松浦党の人々が関連しており、また、製作の年、製作者がわかり、彫刻史や中世松浦党の研究を進めていく上からも貴重な資料です。
普恩寺 木造聖観菩薩坐像(重要文化財)普恩寺区
2.銅造如来形立像(にょらいぎょうりつぞう)
 値賀(ちか)神社に大切に伝えられてきました。右手を腕の前で掌を向けて立っている如来形立像です。像高は7.5cmの小さな銅像で朝鮮半島の統一新羅時代後期(8世紀頃)のものと考えられます。このような像は、壱岐・対馬・西北九州の社寺にも伝えられており、この仏像も、朝鮮半島と松浦地方との交流を示す貴重な資料です。レプリカを玄海町歴史民俗資料館に展示しています。値賀神社には、この如来形立像を含め総数にして29点が町指定されています。これらは、現在、佐賀県立博物館に保管されています。
値賀神社 銅造如来立像(重要文化財)普恩寺区


町指定候補の文化財

1.木造薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)
 玄海町大字石田字大久保の御堂に安置され、この地区の人々によって祭られています。石田区内にあった西光寺の持仏と思われます。胎内の銘文から天正10年(安土桃山時代・1582)の猪熊と名のる博多仏師の作品です。像高は51.5cm。樟材による一木作りで、清涼寺式にあつらえています。像底部を中心に全躰に虫蝕腐蝕がひどく、指が一部欠失していましたので、平成9年度に補修を行い、当時の姿に戻しました。
木造薬師如来坐像 石田区
2.高江城跡(有浦下・有浦上)
 戦国期(16世紀)、松浦党の一族である有浦氏が居った中世の城跡といわれます。標高約130mの通称「高江山」に築かれていて、「縄張り」は主郭と副郭による2郭構成です。東西約200m、南北約80mの城域には堀切(ほりきり)・土塁(どるい)・畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)などが残っています。平成9年度確認調査の結果、主郭中心より掘立柱建物跡や柵ないし塀跡を検出しました。また、中国の景徳鎮製染付碗や青磁皿、朝鮮系の壺などの輸入製品類の細片も出土しました。平成10年度以降も確認調査を続けており、平成11年度に、予防治山事業工事に伴い、中腹を確認調査した結果、当時の石積の一部を検出しました。山すそには、「舘迫」(たちさこ)「軍屋」(ぐんや)「代官屋敷」(じゃあかんやしき)などの地名が現在も伝えられており、往事は、小さな城下町の景観を形づくっていたと思われます。
城主有浦大和守夫妻と伝えられている供養塔が有浦上大字松尾にあります。
高江城跡 有浦上・有浦下区
3.城ノ山(値賀城跡)(今村字仮立)
 戦国期(16世紀)の値賀地方一帯を治めていた値賀伊勢守(ちかいせのかみ)の城跡といわれています。現在は、浄水場となっており、当時の土塁が一部残っているだけです。ここからは、玄界灘の島々を一望できます。近くの中通地区には城主値賀氏夫妻の供養塔(おたっちょ様)があります。
おたっちょ様 中通区 城ノ山(値賀城跡) 仮立区
4.諸浦(もろうら)窯跡(諸浦字石木)
 玄海町役場裏の小丘陵地にあります。江戸時代(18世紀中頃)に、日常使用する磁器の茶碗類を焼いた窯跡です。平成5年度調査で焼成室の2室が、確認され器を焼く砂床・火床も残っていました。現在は、遺跡保存のため埋め戻しています。江戸時代の産業の中で、窯業について知ることができる町内では唯一の窯跡です。
出土品は歴史民俗資料館に展示しています。
諸浦窯跡 諸浦区 諸浦窯跡(焼成室)
5.石造六地蔵塔
 六地蔵とは六道(地獄・天上・修羅・人間・餓鬼・畜生)において衆生の苦しみを救うという6種類の地蔵を刻み作られてものです。高さは約1.7mあり、安土桃山時代・慶長元年(1596)の銘があります。
 この六地蔵は町内では最も古いもので、当時の庶民信仰を知る貴重な石塔です。
石造六地蔵塔 諸浦区
6.長倉(ながくら)遺跡(長倉字鬼塚)
長倉遺跡 石敷遺構空中写真 長倉区
 玄海町役場の近く「鬼塚」と呼ばれる地域にあります。この遺跡から、鎌倉時代(14世紀)と推定される石敷遺構が発見されました。大小の自然石をほぼ一定の高さに極めて密に敷きつめて並べてありました。性格については不明でしたが、青磁碗や白磁碗などの外国輸入品陶器類や平安時代後期(12世紀)の瑞花双鳳八稜鏡(ずいかそうほうはちりょうきょう)と見られる銅鏡が出土しました。また、石敷遺構の下には弥生時代の子供用の石棺墓(せっかんぼ)3基が見つかり、その中から副葬品である勾玉(まがたま)・管玉(くだたま)・ガラス小玉がありました。他には、土器・黒曜石など弥生時代の遺物が多量に見つかっています。
 これらは現在、遺跡保存のため埋め戻しています。
これらの出土品は、歴史民俗資料館で保管、展示しています。
長倉遺跡出土(八稜鏡) 長倉遺跡出土(勾玉・管玉・ガラス小玉)


国指定文化財

1.木造薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)
 東光寺の本尊として伝わっています。平安時代末期(12世紀)の作品で京都を中心に活躍した中央の仏師によって製作されたと考えられ、全体に優美繊細な表現をもっています。像高は89.1cm、ひのき材による寄木(よせぎ)造りで、表面に金箔が施されています。
 本像は、唐津・東松浦地域を代表する優れた仏像です。
東光寺 木造薬師如来坐像(重要文化財)有浦下区

2.長谷川秀一(はせがわひでかず)陣跡
 名護屋城跡のほぼ真南の鎮西町との町境にあります。名護屋城跡の周辺の山々には120余の諸大名の陣跡がありますが、そのうち町内には4陣跡(長谷川・木下・毛利・京極)があります。長谷川陣跡は、その中の1つで、曲輪(くるわ)や石垣が良く残っています。山頂の長方形をした広場の北東辺と北西辺に石垣が続き、北西辺中央北寄り門跡があります。
 長谷川秀一は、織田信長の家臣でしたが、本能寺の変の後、豊臣秀吉に仕え、近江日田城主(滋賀県)となりますが、その後、越前東郷11万石(福井県)の城主となりました。文禄の役で朝鮮に渡り、文禄3年(1594)戦地で病死しました。
長谷川秀一陣跡(特別史跡)値賀川内区
3.木下利房(きのしたとしふさ)陣跡
 豊臣秀吉の甥にあたる木下利房の陣跡は長谷川陣跡に隣接してあります。尾根山に土塁が続いており、北西の郭(くるわ)には石垣も築かれ、遺構の残りは良好です。
 木下利房は、若狭高浜3万石(福井県)の城主でした。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、所領を没収されますが、大坂の陣後、徳川秀忠から2万5千石を与えられました。寛永14年(1637)に亡くなりました。
 木下、長谷川両陣跡ともに未調査の為、今後の調査がまたれます。
木下利房陣跡(特別史跡)値賀川内区

・慶派系統・・・定朝に始まる仏師の正統をつぐ奈良仏師の出身で平安時代後期より江戸時代に至る仏師の一系統
・一木造り・・・頭部と体部が一材で彫りだす技法
・清涼寺式・・・京都清涼寺の像を模したもの
・寄木造り
・・・頭部と体部を割り離し、内ぐりを完全にし、それらを合体する技法
[▲戻る]